studio malaparte
ポイエーシス(制作)の現場、その息吹を伝えるアート・ドキュメンタリー『Edge』。2001年より、CS放送されているこの番組(SKY
PerfecTV! 216ch(無料)、Art Square提供)の劇場公開版より、映像作家を取り上げた「シネマトグラフ篇」全6篇(スタジオ・マラパルテ制作)の愛知初上映を行うとともに、それぞれの番組に呼応した映画作品を同時上映します。
『Edge』シネマトグラフ篇劇場版は、岡山映画祭(2003年10月13日)で全作品が上映され、また東京(2001年7月9日)、広島(2002年9月14日)、京都(2002年9月27~29日)、福岡(2002年11月16日)、仙台(2003年11月21日~22日)などでは、作品の上映とともに、詩の朗読やトーク、シンポジウムなどを有機的に結び付けたスタイルのイベントとして、公開されてきた。これは、番組を制作するスタジオ・マラパルテの主宰者・宮岡秀行が、瀬戸内海の鷺島で、映画を軸にしつつ、様々なジャンルのゲストを招き、上映に加えてシンポジウムやワークショップを行った、複合型のイベント「鷺ポイエーシス」(註1)を継承するものといえるだろう。『Edge』でも、映画を離れて映画を思考するという批判的な視座を保ちながら、ポエジーとの複合、「言葉」との横断的な展開を、積極的に進める姿勢に変わりはない。
この番組を制作するにあたり、宮岡は次のように記している。「2000年の春、私はスペインのビクトル・エリセ監督とともに、一枚のDVDを約一週間で制作しました。マドリッドで再会する少し前に、メールによるインタビューも行ったのですが、そのなかでエリセは、シネアストの"映画を撮らない時間への注視"を促しています(註2)。スタジオ・マラパルテがこれから手懸けるTVシリーズ『Edge~未来を、さがす。』シネマトグラフ篇は、そのエリセと交わした時間の核心部分に触れて行くものになるでしょう。日本のシネアストが映画を撮る僅かな時間と、膨大に抱え込む"映画を撮らない時間"との狭間に視線を向けてゆくこと。撮ることではなく、撮らないことでもなく――、つまり、常にシネアストであり続けることは、一人の人間の精神力が試される時間ではないか?」(註3)。現代のシネアストが、映画を撮るというだけではおさまらない、映画を撮らないという責任をも負っていることを問いかけたシリーズだといえるだろう。
ここ愛知でのプログラムは、「特集:ドキュメンタリーの過去と現在」を受けて、その掉尾を飾るべく、ドキュメンタリーとフィクションの関係や、個人が映像を作ることの意義、そしてそこに不即不離の形で存在する困難さや問題点にも踏み込んでゆく。そして“プライベートにして普遍”というテーマのもと、様々な映像ジャンルから、選りすぐりの作品が併映される。『2H』(1999年)、『味』(2003年)で知られる李纓監督初の劇映画『飛呀飛(フェイ
ヤ フェイ)』(2001/02年)の日本初公開を始め、マルグリット・デュラス脚本、アラン・レネ監督の名画『ヒロシマ・モナムール』(1959年/旧邦題『二十四時間の情事』)にインスパイアされた、諏訪敦彦監督『H
story』(2001年)の愛知初上映は、映画ファンにとって待望といえるものだろう。その諏訪が共同監督として関わったロブ・ニルソン監督の国際共同制作作品『Winter
Oranges』(2000年)は、地域主導のオルタナティブな映画制作の先駆けとして、「鷺ポイエーシス」の豊かな結実となっている。また、即興音楽の哲学者とも呼ばれるミュージシャン、デレク・ベイリーを自然体の姿で見つめたドキュメンタリー『One
Plus One 2』(2003年、アンダース・エドストローム、カーティス・ウィンター監督)は、音楽ファンにとっても興味深いものではないだろうか。
さらにまた、江口幸子『MaMa』(1987年)や原田一平『連続四辺形』(1987年)、ジョナス・メカス『「いまだ失われざる楽園」、あるいは「ウーナ三歳の時」』(1977/79年)など、実験映画の系譜の中で語られてきた、「家族の映像」を捉えた作品も上映される。これまでの『Edge』シリーズの展開に加えて、新たな出会いが、どのような化学反応を起こすのか。映像表現におけるプライベートと普遍性の境界域(Edge)を、もっとも先鋭な切り口で問う、刺激的な2日間となるだろう。
初出:「第9回アートフィルム・フェスティバル」公式パンフレット
(註1)1998年~2001年まで計5回、広島県の瀬戸内海に浮かぶ鷺島にて行われた、映像表現を軸にしたセミナー&ワークショップ。国内外の監督らゲスト40人に、全国から1000人以上が集い反響を呼んだ。
(註2)宮岡の「私たちはヌーヴェル・ヴァーグの時代に比して、映画作家が映画を撮らない時間についての考察を、より必要としていないでしょうか」という問いに対し、ビクトル・エリセは次のように語っている。「この点については私も宮岡秀行氏と同感で、現代においてはシネアストの仕事のこの側面について熟考する必要に迫られているでしょう。特にヴィデオのお蔭で、その時間を創作物の素材にする可能性がますます高まっているのだから。DVDによって作家たちはエッセイ、あるいは赤裸々な日記といった、大映画産業では受け容れられない表現方法で取り組むことが可能になるかもしれない。事実、私は今後のプロジェクトでこの新しい側面を取り入れようとしているのです」(「e/mブックス8 ビクトル・エリセ」2000年、エスクァイア
マガジン ジャパン刊)
(註3)宮岡秀行「Malaparte TV Tour」