studio malaparte
2003年10月に岡山映画祭で上映された『Edge~未来を、さがす。』シネマトグラフ篇(劇場版)では、
「母モニカ- for a film unfinished」と「HOTEL CHRONICLES」、「今、海はあなたの左手にある」の三つの作品が印象に残った。
シングルマザーと天皇制、マルグリット・デュラスをめぐるこれら一見ばらばらに見える三作品に、実は密接に呼応しあい、
通底しあうテーマがあることが発見できたことは驚きであり、映画のこんな見方もできるのかと、上映会に立ち会えたことに新鮮な喜びを覚えた。
今年2006年3月に横浜美術館で開催された『Edge in Yokohama スモール・ムーヴィーに捧ぐ』のプログラムでも、あらためてこの三作品は取り上げられ、
それぞれ、江口幸子の「MaMa」、青山真治の「すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために」、
ピーター・ローズの「遠くを見られない男」といったやはりそれぞれ独立して作られながらも、時空を超えて分身のように通じ合う作品と巧みにカップリングされていて、
より深い感銘をわたしの胸にもたらした。
1987年に撮られた「MaMa」は在日韓国人であるがゆえに、父親の違う私生児を生み続けた母の姿、またその母の母の混沌とした生活や乱れた性愛に溺れる姿をとらえたものである。
つまり女性が家庭を持たず、シングルマザーとなって各地をさまよっていく、いかざるをえない政治的、社会的背景がストレートに描かれている。
自らのアイデンティティを遡及するこの映画なら、それがなぜ作られたかということについて、ああ、そうか、そんな現実があったのかと素直に納得することができるだろう。
しかし「母モニカ」ではこのあたりの事情が逆転している。
「母モニカ」は当初、シングルマザーをテーマとした映画を企画した宮岡秀行と三好暁が、
その過程で実際に妊娠してしまったため中断された映画を、宮岡秀行の呼びかけに応じて再びつむぎなおしたものである。
映画を放棄して父親のいない子供を産むことを決意した三好暁の思いには、計り知れないものがあり、同じ女性としてというと僭越には違いないが、言葉にならない戦慄を覚えた。
女性にとって子供を産むこと、あるいは子供を産まないことはいったいどういうことなのか? 自分自身と重ね合わせ苦しさの中で何度も自問自答した。
その苦しさがどこからくるかというと「母モニカ」の場合、虚構としての映画の外部に映画に先立ち、映画を支える安定した現実があったのではなく、
それさえすでに虚構だったという点につきるだろう。
「MaMa」に描かれた現実がどれほど過酷で厳しいものでも、在日韓国人問題という明確な政治的、社会的テーマとして読み解くことができるのなら、
映画を成り立たせる現実として安定したものである。だが「母モニカ」の場合は違う。ここには何か名状しがたいものがある。
ひとつだけいえるのは「母モニカ」における現実と虚構をめぐる転回は、誰にも起こりうるような人間の根源にかかわるもので、
出口のない息苦しさ、終わりのない不安に人をつきおとすということだ。
なぜかというとそれは、人はどんなに希っても映画を通して映画の外に到達することはできないし、
映画についての映画しか撮ることができないという苦しく孤絶した認識を人々に迫ってくるからである。
そんな認識を持たない方が、映画は作りやすいのかもしれない。またそれが外にあるわずらわしい現実に目をふさいだ映画への安住へと結びついてしまったら、不毛なものに違いない。
そうではなく、醜悪な現実と、そこに生きる自分自身の真実(他者の目に映り自分自身への投げ返されるもの、
それがどんなに歪んだものでも)に少しでも迫ろうとする格闘の中で得られたぎりぎりの緊張と断念によるものならば、
その認識は貴重だし、映画を成り立たせるひとつの倫理になると思う。
今回「飛之夢~fly fly away~」に出演した李纓監督のすばらしい作品「2H」は確かにそんな倫理によって成り立っていたと思う。
映画が映画でしかないということは、わたしがわたしでしかないということと同じく苦しいことに違いない。
それに耐え切れなくなった作家たちは、映画を作れなくなったり、自分が現実あるいは真実と信じるものとの安易で虚妄に満ちた結託へ再び向かっていくかもしれない。
たとえば三好暁は作品の最後で、生れたばかりの赤子を抱いて、これからはこの子が自分の映画の素材になってくれる、よろしくねと語りかける。
孤絶した状況の中でそれでもなんとか生きようとする、映画や他者、世界とつながっていたいと願う作家の切なる言葉なのかもしれないが、
この呼びかけがやがて外部のイコンへの素朴で安易な回帰となっていかないという保証はない。
このわたしの「母モニカ」への疑問は次のことからくるのである。素材にするというなら母親にとって無防備で無力な子供ではなく、なぜその子供の父親についてそうしないのか?
未婚の母をテーマとしながら、なぜ一方の父親の姿が明確に映画に現れないのか? 「母」をテーマにした映画だから?
しかし、父がいなければ誰も母になることはできない。子供にとって父親がいないということはいったいどういうことだろう?
それは単にいないのではなく、不在ということで存在し、いつしか現実を超えたより大きな虚構の父として、それこそ虚構であることを忘れられた超「虚構」、
超「現実」の父として、その子の生を支配することにならないか? それは生れた子供にとっても、映画にとっても不幸なことではないだろうか?
『不敬文学論序説』と『「帝国」の文学――戦争と「大逆」の間』を理論的背景とし、全編中野重治や夏目漱石のテキストの朗読や、天皇とそれに反逆した幸徳秋水、
菅野スガ子らの映像で埋め尽くされた青山真治の「すでに老いた彼女のすべてについては語らぬために」は、まさにそのような不可視の父―天皇制をめぐる困難と自問自答、
悪循環的な閉塞の中で撮られた映画である。三好にとってプライベートな経験であった父のテーマが、よりパブリックな日本の歴史的、社会的背景の中で問い直されている。
かといってそれが「母モニカ」と比べてより深い射程と社会的広がりをもっているわけではない。
それは映画のせいというよりも、突発的なテロとして片付けられ葬られてしまった大逆事件以後、
広く社会に根づいた反天皇制の持続的運動、活動を持たなかった日本の現実のせいだろう。
その中で、天皇制をめぐる映画を撮ろうとしても明確な支点は外部になく、結局文学を素材とし、亡霊のようなおびただしい引用、
イコンで埋め尽くす廃墟とならざるをえなかったというのだろう。
パンフレットには「青山にとって天皇制は母権制(=老いた彼女)のことを指すのかもしれない」とあるが、
天皇制が母権的なものであるか父権的なものであるかという二項対立的な問いは本質的なものではない。
問題は、二度の世界大戦を経て敗戦を迎え、その後の冷戦体制が終わった今日でも天皇制だけがなぜか常に生きのび続けていってしまう日本社会の現実にある。
そのことを日本の内部からだけではなく、アジア、そして世界における様々な他者の視点から問い直さなければならないのだ。
この閉塞感はいったいどこにいきつくのか?
「今、海はあなたの左手にある」の中では、カンボジアで育ちフランスで世界的な作家になったマルグリット・デュラスのテキストが朗読される。
この声を通して浮かび上がってくるデュラスの姿はまるで、計り知れない欲望とそれを取り巻く不在の中で、存在するものとしないものとのすべてを愛し、
抱擁しとけあわせてしまう巨大なグレートマザーのようだ。「もはや私はあなたを愛していないのに、
もはや私は何も、今なお、あなた以外の何も愛してはいない」この言葉は美しいが、母を不在の中へと追いやり、死へと接続する現実的な諸力を忘れ、
脱色された政治性と歴史性を超越する中、永遠に、死と不在と沈黙に戯れていたところでつまらない。
そこから生れるものは映画への愛かもしれないが、もはや映画そのものではないだろう。
「あなた以外の何も愛してはいない」時でも人は生きることをやめないし、この世界のどこかに生きる別のあなたと常に出会い続けていたい。
今回の最終プログラム「Celebrate CINEMA 101」と「グリーポイントからの手紙」はそんな若々しい出会いと幸福な交通への期待に満ちたすばらしい二つの作品だ。
宮岡秀行という若くて大胆な映画人の誕生を祝福するかのような「Celebrate CINEMA 101」と老いの中で千切れていく時間を柔らかくおおらかな手つきでつないでいくメカスの自由さ。
わたしたちは映画を映画としてだけ切り取って、見たり上映したりするのではなく、映画と現実、政治と友愛が未分化で、
お互いがお互いに対する構えや怯えのようなものをなくし、領域や壁を踏み越えることをおそれずに、猥雑で活発な応酬を繰り返す幸福な時代に生きていたい。
それが2000年の佐木島から今日まで、スタジオ・マラパルテのいくつかのイベントに参加してきたわたしのささやかな希望である。
森谷 めぐみ(もりたに・めぐみ)
岡山映画祭プログラマー