studio malaparte
こんばんは。椎名です。リュック・フェラーリについてどういう話をしたらいいかといろいろと考えたんですが、まず、あまり知られていないだろうと思ったわ
けですね。それで、良く知られた人と比べたら、わかりやすいのではないかと思ったんです。フェラーリは、自分を作曲家と定義していますので、作曲家ではな
い人と比べてもあまり意味がありません。まず、すぐに思いつくことですが、ジョン・ケージと比べたらわかりやすいというのがあります。ジャクリーヌ・コー
が作ったドキュメンタリー『ほとんど何もない―リュック・フェラーリと共に』の中で、確かケージについての言及がありました。そしてもう一人、今年生誕
250年のモーツァルトと比べると、わかりやすいかなと。実を言うと、ケージも生誕何年ということで、うまく話が合ったら面白いと思ったんですが合わなく
て。彼は1912年生まれなんです。フェラーリは29年生まれなので、ケージよりもかなり年下なんですね。モーツァルトは大先輩ですけれど。そういうふう
に比べて見るのも面白いと思ったんです。
フェラーリについてのドキュメンタリーを二本観ていただいた後なので、かなり色々と前衛的なことをやっている人だということを、わかっていただけたかと思
います。
モーツァルト
そこで、モーツァルトです。「何だ!」ということになるかもしれないので、面白いと思ったんですね。これはケージと比べることの下ごしらえみたいなものな
んです。簡単に言ってしまうと、ケージよりは、モーツァルトに近いのではないかと思ったんですね。ベートーヴェンでもいいのですが、フェラーリ本人は、多
分、ベートーヴェンよりはモーツァルトに近いと言われた方が喜んだんじゃないかなと。
ただ、音楽作りの自由さでいうと、ベートーヴェンかなと思うのですが。いわゆる古典的な作品では、非常に自由ですよね。
ベートーヴェンというと、フェラーリの作品に、ベートーヴェンとストラヴィンスキーをくっつけた『ストラトーヴェン』という作品があります。これも機会が
あれば聴いていただきたいのですが、ベートーヴェンの『運命』とストラヴィンスキーの『春の祭典』をくっつけてしまったんですね。そういう器用なこともや
る人だったんです。これは音楽の冗談みたいなものです。でも、単にくっつけただけではなくて、ある種の物語性が必ずそこに入ってくるというのが、フェラー
リの特殊性なんですね。
モーツァルトと何が似ているのかというと、音楽を自分の頭できちんと作っていることでしょうか。もちろん、偶然性もあります。先述した映画『ほとんど何も ない』の中で、偶然性のテクニックを紹介しているシーンがありましたね。灰皿の中から言葉を取っていくシーンです。自由に、くじ引きのように取るわけです ね。それによって音楽を作るんですが、最後で、なるべくズルはしなかったと書いているんです。ということは、実はズルをしているんです。フェラーリには、 必ず自分の頭で作り上げている部分、またはある種のイメージがある。そこがケージと違うんです。ケージの一番有名な曲は、『4分33秒』という無音の音楽 だと思います。これは作曲の意図を見せない。枠組みはあるので、意図はあるんですが、少なくともその枠組みの中に落ち込んでくる音すべてを受け入れてい る。それは作曲家の意図を最大限、放棄することだと、ケージ自身が言っています。そういう意味でいうと、フェラーリは意図している、ということですね。
ジョン・ケージ
このことを非常に強く思ったきっかけは、『プレスクリアン(ほとん
ど何もない)』という作品です。フェラーリが念のためにつけたという番号、第一番とかがついています。僕が最初に知ったのは、近藤譲という作曲家の著書の
中です。多分、近藤譲本人も騙されていたのでしょうけれど、そこの紹介では、録音をずっとしっぱなしである、ユーゴスラビアのある海岸の夜明けから、徐々
に太陽が昇って、いろいろな活動が始まる、それがそのまま手を加えずに録音されている、という紹介をしていて、僕もそう信じ込んでいたんですね。その後、
フェラーリ本人の書いたものをいろいろ読んでいたら、実はそうではないわけです。考えてみたらそうですね。その作品は20分程の作品ですが、夜明けから日
が昇りきるまで何時間もかかるわけで、それをまとめているわけです。ただ、どこに作為が表れているかわからないように、非常に巧みに編集されている、つま
り作曲(コンポジション)されているわけです。作曲されていないように見える作曲という巧みさ。これがフェラーリの巧さでしょうか。
近藤譲でさえ騙されていた作曲。ただ、その意図を伝えたいと言ってしまうといけないんですね。
モーツァルトと似ているといってしまった段階で、例えばピエール・ブーレーズだとか、いわゆる現代の音楽家・作曲家と、フェラーリはどう違うのかとなって
しまうんですね。同じなのかと思われると、それはまた違うわけです。まずブーレーズは書くことに非常に執着しているといいますか、あまり実験的な音響を
使ったりしない感じがあります。従来の音を使って作曲をずっと続けていて、それで前衛的と言われている。もちろん、フェラーリの方は使っている素材が録音
であったり、映像インスタレーションなどをやっていて、そういう意味でも違う要素があるんですが、作曲家の意図が最初から最後まで貫かれているということ
であれば、そんなに違わないのではないかと不安になるわけです。少し強弁かもしれませんが、モーツァルトの曲を、私たちは音の意味など考えないで聴く、気
持ちいいから聴くわけですね。しかし意味へのこだわりではなくて、意味というのは、当時、音楽の中に必ずあったんです。音楽を巧みに利用して意味を伝えよ
うとしていたと。それが私たち現代人には意味としては伝わらず、ただ聴いて気持ちいいぐらいにしか思わない。それと同じようなことが、フェラーリにも言え
るだろうと。そのあたりがブーレーズなどと決定的な違いになるだろうと思うのです。ブーレーズはもともと、極力、意味をはぎ取っていこうとしている人で
す。非常に抽象的な音の作り方をしている。自由自在に作り上げている。フェラーリはそうではないですね。音以外、もちろん音もそうですが、必ず背後に意味
がある。もちろんミュージック・コンクレートであれば、日常音を録音してきて使用する。その日常音は音源がありますから、どういう意味合いで使用するか、
例えば風呂場ですべって転んでガツンといった音など、こだわりがあるわけですね。音の中に物語性があって、それをそのまま使う。物語を語るためではなく、
曲がりくねった様々なうねりを描きながら進めていくような感じでしょうか。ただ最終的には彼の人生の物語になるんですが。
フェラーリが一番気にかかっている要素の一つというのが、自伝、オートバイオグラフィーです。それを非常に戦術的に、そこかしこに書き散らしている。例え
ばレコードのライナーノートの余白にちょっと書いてあったり、プログラムに書いてあったりするわけです。これは自伝だから、自分の人生について語っている
んだろうと私たちは信じ込んで読んでいますが、実はわからない。自伝自体が持つ意味を、彼が巧みに操作しているわけです。結局はおもしろがっているので
しょうね。
また、逸話を語る音楽を作っているのですが、どういう逸話なのか、よくわからないんですね。フェラーリ自身が語らないんです。これも非常にうまい、と言い
ますか、「これはある物語を語っているんだ」と言いながら、しかしそれは秘密だというわけです。何だろうと、聴く人は引きつけられ、聴いてしまう。すると
その中に、非常に面白い音が、あちこちにばらまかれているわけです。非常に巧みに作り上げられているんですね。
『ほとんど何もない』より リュック・フェラーリ
映画『ほとんど何もない』の中でも出てきましたが、純粋器楽の作品
も作っています。生涯をわたって、いろいろなメディアのために作るのですが、それらをすべて併行して書いているんです。彼はもともと、オリヴィエ・メシア
ンについて作曲を勉強したという、非常にアカデミックな人です。先ほどブーレーズと比較しましたが、ブーレーズもメシアンの弟子なんですね。ブーレーズの
方はどうかわかりませんが、多分、ライバル意識もあったと思うんです。ブーレーズも一時期ミュージック・コンクレートの曲を作るのですが、ピエール・シェ
フェールというミュージック・コンクレートの親玉と喧嘩をして、やめてしまう。その後コンピューターを使ったりもするけれども、純粋に器楽曲だけを作るわ
けです。フェラーリはというと、基本的には喧嘩が好きではないんでしょうね。しばらくは、ある程度うまくやっていたんですが、喧嘩別れしてしまう。そのよ
うに、非常に複雑な歴史があるわけです。
フェラーリは、ミュージック・コンクレートもやっているし、電子音楽もやり、室内楽やオーケストラといった器楽作品も作曲し、映画も作るし、映像インスタ
レーションもおこなっている。その中で、「器楽作品はどういうものなのかな」と聴かれると面白いのですが、確かに、フェラーリというと、器楽作品はあまり
聴かれません。しかし、同じような関心につらぬかれているんです。器楽作品の中にも、意味性・物語性を伝えたいと。アカデミックな音楽もかける人なので、
音が持っている意味合いを、モーツァルト的にちゃんと知っていたんですね。
また、テクストをからめることによって、音の持つ意味、広がりを複雑にしていくわけです。そういった意味でも、音を意図的に操って使っているという、ブー
レーズ的な部分がない、かなり特異な人です。現代音楽の中で、抽象化・非人間化という流れが非常に強かった時期から、彼は物語性を重要な要素として取り入
れていくんですね。だから孤立していったのかもしれません。
ブーレーズ
ジョン・ケージはどうでしょうか。音楽の意図を放棄していたのかと いうと、そんなことはなくて、ケージは最後まで作曲を放棄しなかった人ですから、ある種の音の扱い、自分のイメージで作っていることがあったはずです。は ず、というのは、やはり偶然性が非常に強い要素として前面に出ているので、私たちが曲を聴いて、あるイメージを抱けるにせよ、やはりラディカルさというの でしょうか、それに圧倒される部分があるんですね。ではフェラーリはラディカルではないのかというと、どうなんでしょう。フェラーリの方が、ケージより も、荒々しさ、ラディカルさがそれほど強くないといってもいいかもしれませんが、それよりも他に言いたいことがたくさんあって、困っているというような感 じがしないでもないですね。
フェラーリはいろいろな媒体を使って、結局何を語っているかという
と、自分のことを語っているわけです。例えば彼の映像インスタレーションですが、そこで使用される音楽は、これまでに彼が作った曲の集大成です。晩年にな
るにしたがって、彼は過去の作品をもう一回自分でリミックスする、違ったやり方で作るということを始めたんですね。
でも最初から、彼は自己のことを語っていた、その語り方も、そこに自由さを求めてきたという印象があります。オーソドックスさからすぐに飛び出して、
ミュージック・コンクレートを始めるけれど、そこから飛び出して、自分自身のスタジオを作る。しかしそこも、ある程度したら飛び出してしまう。そしてそん
なことをやっているうちに、ブーレーズはというと、ドイツで成功してフランスに凱旋して、ある種のオーソリティになるわけです。フェラーリはそういうオー
ソリティから必ず逃れていこう、絡め取られることを避けていたんですね。必ず「逸脱」していく。
ただ、逸脱するには、もとがないといけない。もとをある程度措定しておかないと逸脱できないんです。つまり、「ずらし」ですね。そのずらしというのが、彼
の作品の中に現れていると思うんです。それが例えば意味のずらしであったりする。そうすると、そこからユーモアが出てくる。彼が物語を語っている音楽では
あからさまにありますが、そうではない作品の中にもある。最初から最後まで首尾一貫して逃げ続けていったような人だと思います。
音楽作品をなるべく、直接聴いていただいた方がわかる気がします。 フランス語がわかるとなおさらよくわかるんです。いろいろな仕掛けを中に施しているので、より面白いのですが、わからなくても、例えば『プレスクリアン』 は、ユーゴスラビアで録音された音だけで作られていて、それによってある物語性を伝えているわけです。 また、ケージとの違いを特徴づけることとして、映画というのがあるんですね。フェラーリの音楽の作り方というのは、映画的ではないかと思うんです。映画と いうのは、現実そのものをみせるわけではなく、第二の現実をみせるとよく言われています。ケージは人生そのもの、現実そのものを見せているのだけれど、 フェラーリの場合は、それを映画的に作りあげている様な気がします。彼が若い時に映画を撮っていることと、何か関係があると思うんです。
宮岡秀行との質疑応答
『マザー、サン』
M:『リュック・フェラーリ―ある抽象的リアリストの肖像』の撮影
中、フェラーリやジャクリーヌと、映画の話を良くしたんです。僕がアレクサンドル・ソクーロフ監督のアシスタントをしているということで、ソクーロフの話
をしたら、二人とも大好きだ、一番好きな監督なんだと。実際、フェラーリはサン・セバスチャン映画祭だったか、マドリッドのフェスティバルだったか、とに
かくスペインで開かれた映画祭で審査員をした時に、ソクーロフの『マザー、サン』をグランプリに押したんだけれども、周囲全員に反対されて、自分は喧嘩が
弱いのであきらめてしまったと。でもこれが一番素晴らしい映画だと仰っていました。
そのソクーロフの映画で僕が一番不思議に思うのが、時間の感覚なんです。いわゆる時計の秒針とは違った時間が彼のカットに流れているのではないか? この
椎名さんの著書『音楽的時間の変容』は、最初の方に「逸脱」という言葉が出てきて、そこから音楽の時間論になっていると思うのですが、音楽における時間と
いうのは、現実の時間とどう違うのでしょうか。
S: 現実的な時間とは違うと、よく言われています。ただ、どういうふうに違うのかというと、非常に様々な場合があるだろうと思うんです。本の中では、そういう いろいろな場合を扱ったんですね。フェラーリの場合は、『プレスクリアン』のように現実に計られている時間のようであるけれど、実は聴く人が騙されている というんですかね。あたかも現実であるかのように、当たり前の時間であるかのようにしていながら、実は違うというような、非常に特異な時間だと思うんで す。古典的な音楽家は音楽の中だけの時間、音楽が作り出す時間を巧みに操作していたというふうに考えてもいいかと思っています。そうすると、例えばケージ のような現代音楽のほうが、音楽に近いのではないかと。そのあたりのせめぎ合いが非常に面白いんですが、フェラーリの場合は現実そのものではないわけです ね。
M: フェラーリの自伝に対するアプローチというのは、自分が自分について私小説的に語るのとはまったく違うと思うのですが。
S:
違いますね。いわゆる自伝文学とは違います。自己を語っていることが本当であるということが暗黙の前提となっている、語っている人間が語られているテクス
トの中で一致しているというのが、書き手と読み手との契約事項ですね。しかしフェラーリはそうではなくて、はぐらかしがあるんです。例えば矛盾した表現が
あったりする。でもそれは自伝なんだと彼は言うわけです。そうすると普通の自伝だと思って読んでいる読者が惑わされてしまう。何を信じていいのかわからな
くなる。でもホントっぽいことも書いてあるわけです。そのあたりが、意味と戯れているんですね。
もう一つ、ユーモアのセンスですね。ずらし。そのあたりがかなり違うというのかな。
M: そういう意味で、まさに「フェイク」、偽自伝なのかもしれませんね。
本日はありがとうございました。
□椎名 亮輔(しいな りょうすけ)
音楽学。パリ第8大学でダニエル・シャルルに師事し、フランスでの大学講師を経て、現在は同志社女子大学教授。著書に『音楽的時間の変容』、主要訳書に
『リュック・フェラーリと ほとんど何もない』(ジャクリーヌ・コー著)、『実験音楽』(マイケル・ナイマン著)など。