studio malaparte
広島県の三島港から船で20分程の佐木島に、鈴木了二設計の佐木島コテージという建物がある。 ファシズムの伴走者であり批判者でもあったマラパルテがカプリ島の断崖の上に建てたヴィラをひとつのモデルとして、それをいわば脱構築しようとする試み。 しかも、瀬戸内の小島の平坦な浜辺で、地元の業者の職人芸による木造モルタル建築として実現してみせたところが、かえって面白い。 「アヴァンギャルド」に対して言えば「ヤバンギャルド」というところだろうか。 さて、マラパルテ荘を舞台に『軽蔑』(63年)を撮ったゴダールは、『中国女』(67年)あたりから急速に左傾化し、そのころ出会ったゴランと組んで、 最近日本で久しぶりに上映された『東風』(69年)に代表される一連の問題作を撮ったのだったが、 そのゴランを佐木島に呼んで「少女」をテーマに『軽蔑』のリメイクを試みるという手の込んだプロジェクトが、 スタジオ・マラパルテによる「鷺ポイエーシスV」としてこの3月に行なわれ、私もそのセミナーに参加した。 意欲的なプログラムの割に、それを十分に支えられるだけの組織が欠けていて、プロジェクトが混沌とした様相を呈していたのは事実だ。 しかし、少なくとも私には、その混沌自体がむしろいかにもゴダール&ゴラン的なものと思えたし、磯崎新、内田春菊、そして撮影監督を務めた長島有里枝といった、 普段はおよそ同席する機会のない人々と、瀬戸内の小島で共に過ごすというのは、実に面白い体験だった。とくに、ゴランの話は予想以上に興味深いものだったと思う。 彼とゴダールの共同作品は72年の『万事快調』と『ジェーンへの手紙」が最後になるが、短い期間とはいえ、その共同作業はきわめて密度の高いものだったらしい。 たとえば、「正しい映像 image juste」ではなく「たんなる映像 juste une image」という『東風』の有名な言葉もゴランによるものだったというから、 共同作業における彼の役割の大きさは再評価される必要があるだろう。ゴダールと別れた後、ゴランはアメリカに渡る。 そこで彼の撮ったいくつかのドキュメンタリーもなかなか面白い。ただ、強いて難を言えば、ややきっちりと構成されすぎているというところだろうか。 そこから推測するに、ゴランが組み立てた堅固な構造を、ゴダールがいい意味でアナーキックにシャッフルし直すことで、ああしたスリリングな共同作品が生まれたのかもしれない。 いずれにせよ、『東風』の久しぶりの再上映にかかわった私としては、その直後に作者の一人であるゴランと出会い、 たんなるゴダールの寄生虫ではない独自の重要性をもった映画作家・理論家として彼を再発見できたことは、きわめて貴重な体験だった。 それにしても、直島の美しい調和と、佐木島の崩壊寸前のアナーキー、その両極端を、立て続けに体験することになろうとは!
初出:「i-critique」 2001年3月20日 批評空間