studio malaparte
■Edge 2~今を、いきる。 第二弾
2004年4月23日放映「リュック・フェラーリ ある抽象的リアリストの肖像」(46分)
TV版制作ノート「久米仙人フェラーリ」 by 宮岡秀行
私はかねがね「ある抽象的リアリストの肖像」を描いてみたいと思っていた。抽象的というのは、その芸術家の表現のこだわりや奥行きを指し、リアリストという観点は、食事やちょっとした雑談という日常生活を通じて、見えてくるものを示すことだと言える。通常は相反するこの二項を、ごく自然に同居させている人物こそ、本編の主人公リュック・フェラーリであるが、映像の断片が形作る全体の印象として、何かもう一つの異なった次元の現実を与えることが出来ればと、願った。
私にとってリュック・フェラーリという存在は、『母モニカ』のモニカ同様、一人の作曲家というより、全人的な存在、全存在がそのまま表現になるような人間という感じがある。自然体で生き、音楽を奏で、すべての芸術を愛し、多くの友を愛し、妻を愛し…、深遠な精神性と明るい通俗性が、独特のナイーブな糸で結ばれているキャラクターである。彼にとって音楽とは、「何ほどのこともなく行われるもの」なのだろうし、実際、その通りに生きているように見える。
2003年に来日した際に撮影したフッテージをまとめずにいたのは、そういうふうに真実の自然体を捉えることが出来なかった為でもあった。来日公演を捉えた凡庸なインタビューやコンサート映像からなる番組であれば、すぐにでも出来た上がったものの、それらを捨て、『母モニカ』がロッテルダム国際映画祭に招待されたのを機に、フェラーリが住むパリへと赴いた。なんとも遠回りであったが、作家フェラーリである以上に人間フェラーリをモデルに、彼のテリトリーを「スキャニング」出来たのではないかと考える次第だ。
我々がパリ滞在期間中に予定されていたフェラーリのライブは延期となり、結果的にはリハーサルしか撮れなかったものの、リハーサル独特のリラックスした時間や、また長年連れ添って来た夫婦の時間から垣間見える感情の起伏が、「理屈」や「技術」だけを捉えて一般化するアプローチとは違ったものにしているだろう。主にアンダース・エドストロームによって撮られた生活パートと、西原によるライブシーンを、翻訳家の村上伸子さんの強力なサポートによって、私がまとめ上げていった。親しみがあり、気取らないフェラーリ夫妻の雰囲気を二人のキャメラマンがうまくにフォローし、やり直しのきかない一発撮りのリハーサルでは、マイクをベストの位置に据えることが出来た(このオン・マイクによる音源を聴いたミキサーの黒川博光は、フェラーリがいかに音の成分を熟知しているかを、驚きをもって聴き、調整を行った)。
Edge出演者では長老格となるフェラーリの年齢は特に記さないが、僕の倍の年月は生きてきたこの人の在り方、メインストリーム(権威)からは距離をとり、他人に嫉妬せず自分自身であり続け、女性をこよなく愛し、久米仙人【註】の如く生きて行く姿は、決して他人事ではない気配が漲っており、言葉は通じないが、それ以上のものが通じたと、今も彼の姿を思い出す度に感じている。
余談になるが、本編編集前に見直した映画は、サム・ペキンパーの『バイオレント・サタデー』(1983)であった。晩年のペキンパーが自身のことを、「老いたイグアナ」と呼んでいたように、フェラーリが「久米仙人」という呼称を好むかどうか、今度会ったら聞いてみたいところだ。
宮岡秀行 2005年4月25日
【註】久米仙人(くめのせんにん) 伝説上の人物。大和国吉野郡竜門寺に籠(こも)り仙人となったが、飛行中吉野川の岸辺で衣を洗う若い女の白い脛(はぎ)を見て神通力を失い墜落。高市郡遷都の折、山上の材木を空中を飛ばせて運んだので、免田30 町を与えられ、久米寺を建てたという。