studio malaparte
宮岡秀行様
僕が、宮岡秀行のことを知ったのは映画好きの友人の次の言葉からでした。「昔、湯布院映画祭で顔見知りになった客の一人に、ミヤオカという青年がいたんだけど、その後、彼は世界中を旅して、ビクトル・エリセを始めとして世界のシネアストたちに、映画生誕百年を記念して、ビデオで短編を撮らせたらしいよ」。僕はその話を聞かされた時、正直なところ、余り良い印象を持ちませんでした。当時、既に、ロブ・ニルソンやヴェンダース、そして、エリセが『マルメロの陽光』(1992)でその一部をビデオ撮りしていた時代だったとはいえ、ビデオというある意味で(予算の面でも、技術的な面でも)安直なメディアを使って、海のものとも山のものともしれない無名の人間が世界の巨匠たちの力を借りたオムニバス作品を作ってしまっただなんて、ズルイ以外の何ものでもないと思いました。ビデオというのに引っかかったのと、後はまあ、やっかみですね。しかし、その反面、一体どんな作品なのだろうかと興味が湧くのを抑えられなかった。
『Celebrate CINEMA 101』と名付けられたその作品は、1996年に完成し、僕としては、これだけ豪華な面子が揃った映画なのだから、大阪のどこかの映画館ですぐ上映されるだろうと高をくくっていたところが、待てど暮らせど、一向に上映される気配はありませんでした。満を持して、僕の友人の小川孝雄さんが中心となって開催された岡山映画祭での上映が決まったのが1998年3月。当然、僕はいてもたってもいられず、岡山めざして韋駄天走り、上映に駆けつけました。見終わった後、僕は宮岡秀行に対する己の先入観を恥じました。やっとの思いで見たこの作品には、虎ならぬ作家の威を借りたミヤオカではなく、世界の巨匠相手に一歩も引けを取らない若い映画作家、宮岡秀行の息吹が感じられたからです。先入観と一緒にビデオへの偏見も吹き飛ばされました。そして、上映後のシンポジウムでも他の映画作家もどきたち(原将人、高嶺剛、大木裕之)がかすむほどの勢いでもって論陣を張り、論客としても一流であることを証明してくれました。僕はそんな宮岡氏にすっかり魅了されてしまい、映画100年ならぬ101年目の男に映画祭のプログラムが終了した後に行われた交流会で興奮冷めやらぬまま、延々と話しかけてしまいました。
岡山映画祭から十年近くの歳月が過ぎました。その間に、僕は、宮岡秀行/スタジオ・マラパルテの活動を、「鷺ポイエ-シス」を始め、福岡、名古屋、そして、京都となかば追っかけと化して追い続けて来ました。
『Celebrate CINEMA 101』も 1999年8月にシネ・ヌーヴォ梅田でようやく上映されてメデタシメデタシといきたいところなのですが、僕の中では、何故、九条のヌーヴォで上映してくれなかったのかという不満が残りました。勿論、興行の面から考えれば、梅田での上映は正しい判断だと思います。作家性の強い個性的な映画を上映・観賞するならシネ・ヌーヴォ梅田というイメ-ジが観客にも映画館側にも当時はあったからです。
にもかかわらず、僕は九条での上映を心の中で望みました。どちらもミニ・シアタ-とはいえ、九条の方が映画館としての空間の豊かさ(座席数は69席のわりに天井の高さとスクリ-ンの大きさは特筆に値する)が上なのは明白です。優れた作品を大阪一のミニ・シアタ-で堪能したいという願望は映画ファンとしてごく当前なのではないでしょうか。
そんな訳で、ようやく本題にたどり着きました。今年の3月の横浜美術館での上映会の成功をうけ、次に、「Edge
in Osaka -スタジオ・マラパルテによる映画史」と題された上映会がシネ・ヌーヴォ九条で5月13日から19日までの七日間、開催されました。初日には、メカスの最新作を、そして、最終日にはあの『Celebrate
CINEMA 101』といったライン・ナップで、合計14本(覆面上映も含む)も上映し、レイトとはいえ、七日間も商業館での上映をすることの劇場側/マラパルテ側双方の負担は想像に難くありません。諸々の事情はさておき、僕としては九条での上映は積年の願い(?)ですから、まさに感無量でした。
『外套』
一日目。
初日のメカスの最新作『グリ-ンポイントからの手紙』(2004)は、上映30分前から既にロビーが人でごった返していたほどで、最終的に60人以上のお客さんが入り、小雨にもかかわらず初日から快調な滑り出し。しかも、この日は、当日、宮岡さんが急遽思いついて(上映の15時間前に!)覆面上映という形で追加上映されたのが、開けてビックリ玉手箱、ユーリー・ノルシュテインの未完の名作『外套』だったこともあって、観客の興奮が映画館の隅々まで波のように伝わってきた。上映前には、カイエで論陣を張り、現在、大阪市立大学で講師を務める海老根剛が宮岡秀行に質問するという形式でト-クが繰り広げられた。このトークの冒頭で、今回の上映会から二ヶ月後の7月21日から23日までの3日間、大阪の船場ア-トカフェで、「リュック・フェラ-リ・フェスティバル」が予定されていて、それが船場アートカフェとマラパルテの共同開催ということもあったからだと、トークの相手役を海老根剛に選んだ理由の一つが宮岡秀行から軽く告げられたのだが、流石だと思った。何故なら、「映画史」という言葉のイメ-ジから人は「過去」の出来事を想像しがちだが、この上映会のすぐ後のマラパルテの仕事でもある「リュック・フェラ-リ・フェスティバル」は大袈裟に形容するならば、「近未来」ということになり、マラパルテの新たなる友人、海老根剛の登場は、まさに、マラパルテの「未来」を予告するといっても過言ではないわけで、マラパルテの映画史の初日にふさわしい人選だからだ。マラパルテの上映会のゲストは、多くの場合、映画関係以外の人々で、それは、映画狂(教)ではない人々に開かれた活動という方向性からそうなるのだろうが、「カイエで唯一、興味深い文章を書いていた」と宮岡秀行から紹介された海老根剛は、現代映画の問題を先鋭に問いながらも、映画狂(教)の狭い世界にだけには留まらない人のようで、その点でも楽しみだ。
ところで、「リュック・フェラ-リ・フェスティバル」では、観客は、入場料の代わりに資料代をチケット料金として支払うというシステムになっていて、その資料はおそらくマラパルテと船場アートカフェの共同で作られるのだろう。そこで、僕の目に浮かんだある光景―2004年11月、愛知芸術文化センタ-の主催で、「第9回アートフィルム・フェスティバル」が開催され、その中で、特別プログラムとして組まれたのが「Edge
in Cinema in Nagoya」なのだが、宮岡秀行は、そこの主任学芸員の越後谷卓司と半年かけて、上映会の方向性を練ったそうだが、シンポジウムでは、越後谷卓司はいかに宮岡秀行との作業が大変だったか切々と語ったのだ―。彼の話を聞きながら僕は苦笑すると同時に大いに共感した。実は、僕も宮岡秀行とは、『Edge―映画と詩の間』という本に納められている「映画と詩の共鳴250」で本格的に仕事をしているのだが、正直言って、途中で投げ出したくなるほど、随分しごかれた。おそらく越後谷卓司も宮岡さんから山のようにアイディアが届くたびに何度も落ち込んだことだろう。そんな訳で、資料作成と7月の上映会を通して海老根剛がどれだけ大変な目に合うか(もう合っているかも)。ト-クの間、宮岡さんの口から「友人」という言葉が出る度に、果たして、海老根剛は試練を乗り越え、ミヤオカの真の友人になれるのか、頭の中をそんなことがチラっと横切った。まあ、以上はすべて僕の妄想にすぎないのかもしれないが。現に作曲家の鈴木治行が、同じく『Edge―映画と詩の間』へ「『Edge~未来を、さがす。』シネマトグラフ篇を体験することについて思いめぐらし」という文章を寄稿した際の作業では第一稿で(!)OKをもらったという奇跡もあったわけだから。
栃尾充様
お手紙ありがとう。
ここ数日体調がすぐれなかったことがまるで嘘のように、きみの手紙から善いエネルギーを受け取ることができました。
まず、初日にノルシュテインの作品をもってきたのは、ヌーヴォの支配人奥三紀さんのことを前夜に考えたからでした。
彼女がまだ副支配人だったときに、広島までその作品を見に来てくれたことがあって、その夜の幾つかの記憶が蘇ってきたのです
(といって、彼女との間になにかあった訳では無いのだが)。
彼女にその映像をプレゼントしても良かったのでしょうが、きみが言うように九条の大きなスクリーンにそれを映し出し、その日集まった人々と共有してみたいと考えたのです。
自分が誉め讃えたいと感じたものを、独り占めするのではなく、多くの見知らぬ人たちと分かち合いたい。
そのためには作品を保存し、上映し、そのなかには旧知の友人との記憶もまぎれていて-そのような思いは、どこかメカスとも通じるものがあるかな、と。
こちらの思いとは裏腹に、ヌーヴォの社長の景山さんが、外套を着たアカーキーとメカスの風貌が似ていると云って、それに奥さんが応えてと、初日は楽しい夜となりました。
栃尾さんはメールで「真の友人」という風な書き方をしていました。友人ということばで思い出す台詞があって、
「君の友人になりたい。でも友情なんて不可能かな」というデニス・ホッパーの、『アメリカの友人』(1977)のなかの台詞。
友情なんて不可能でいい、友人になることができればという感じは、僕にはよくわかる感覚です。でも日本は友情の押しつけが多いうえに、そのふたつの違いをわからない人が多い。
友情は平気で相手の領域に踏み込むが、友人はそうではない。そのあるかないかの境界を大事にしたとき、ときに、友を失う。同じ道を旅する誰かがいてくれる、
そんな「連帯の感情」が船場で持てるといいかな。
この項つづく。
宮岡秀行
椎名亮輔氏
二日目。
この日は、リュック・フェラ-リを素材にした二本の作品『リュック・フェラ-リ―ある抽象的リアリストの肖像』(2005)、『ほとんど何もない―リュック・フェラ-リと共に』(2005)が上映された。前者はマラパルテが、後者はフェラ-リの親友で、音楽学者のジャクリ-ヌ・コー等の手によるもの。フェラ-リの晩年―「フェラ-リの晩年」と口にする時の抑えがたい違和感、「晩年」となってしまったのは、フェラーリが2005年8月に亡くなったからなのだが―不意に訪れた筈のその死の半年前に、二本の作品がほぼ同時に撮影されていたとは、単なる偶然だろうか?
作品はさておき、この日の上映は、映写のトラブルに見舞われ、30分近く遅れてのスタートとなった。不測の事態に対してヌーヴォ側の対応はとりあえず悪い印象は与えなかったと思う。立ち見客が出るほどの満席の客席に、お茶を配るなどして場の雰囲気を和らげるといった配慮は、アットホームな雰囲気(所謂「アットホームな雰囲気」というものが個人的には余り好きではないが…)を持つヌーヴォならではの対処だった。とはいっても、ヌーヴォの社長の景山さんに連絡がつき、以前使用していた映写機が置いてあることが分かり、それを使って何とか上映できたが、何故、支配人がそんなことも把握していないのか、問題だ。
景山さんに連絡がつかなければ一体どういうことになったのか? ただでさえ遅い時間帯からのスタ-トなのに、30分の遅れのせいで、遠方から来た客は帰りの電車の時間の心配をしなければならず、客席のそこここから、終電の都合で途中までしかいられないと困惑気味の会話や、かなりはっきりした不平を述べる声が聞こえてきた。実際、上映後に行われた、音楽美学の椎名亮輔氏による『リュック・フェラーリと ほとんど何もない』出版記念講演を聞くことなく、何人かの観客が劇場を後にした。当然、僕も普段なら映画館側の失態に対して憤慨しているところだが、今回に関しては、何故か怒りが湧いてこなかった。上映が始まるまで何時間でも待ってやろう、と。多分、一緒に見ていた妻も同じ思いだったと思う。我々夫婦にとって、あの時、あの瞬間、ヌーヴォの空間は佐木島の空間へと繋がっていたのだと思う。これは「鷺ポイエーシス」を体験した者でなければ理解してもらえないと思うが、広島の瀬戸内海に浮かぶ小さな島、佐木島に半ば閉じ込められた状態で、マラパルテのポイエーシス(制作)に巻き込まれ続けると、時間の感覚も無くなり、トラブルさえも、「今、ここ」としかいいようがない‘体験’の一貫として捉えてしまうところがある。「映画で生きる」シネフィルや「映画と生きる」愛好家‘観客’にとっては、あたかも道中で小石に躓くかのような明らかな妨げでしかない上映トラブルが、逆に「映画を生きる」には役立つ、転換の躓きとなる。言うまでもないことだが、マラパルテの関与した上映会がトラブル続きだとか、トラブルに対して無頓着だと言っているのではない。むしろ、マラパルテが普通以上にこうしたトラブルが起きないように細心の注意を払う集団だということは周知の事実だが、それでも起きてしまうのがトラブルというもので、いざ上映という時に、オカルト映画のように会場の電源が落ちてしまったりする。まあ、こんな風にトラブルを好意的に受け取るのは我々だけだったかもしれないが。宮岡さんや西原多朱さんがヌーヴォ側の失態で大変な目にあったことは勿論、何よりお客が迷惑した訳だが、最後に以下の言葉(椎名亮輔氏との簡単な質疑応答で、終わる間際に宮岡秀行が今回のトラブルについてふれた短いコメント)をさらりと言ってのける図々しさというか機転は数多くの修羅場を体験してきた宮岡さんの強みで頼もしさすら感じた。トラブルさえも、ポイエーシスの一貫としてしまう、まるで「鷺ポイエ-シス」の再現のようで、まさに、インディペンデント・スピリット! 「我々の映画の中で、フェラ-リのコンピューターがトラブルを起こしたように、今日の上映では、映写機のトラブルがありましたが、きっとあのような場面を撮ったが故に、フェラ-リの霊に祟られたのでしょう」(場内爆笑)。
後日分かったことだが、『ほとんど何もない―リュック・フェラ-リと共に』の発色を抑えたような画面は(白黒映画だと思った人もいたかも)、本来の状態ではなく、映写の問題だったということで、映写機が動かないというトラブルに加え、ヌーヴォには今後、気をつけてもらいたい点だと思う。本当は上映が遅れることなんかとは比較にならない重大ミスで、かなりショックな出来事ではあるのだが、今更、激昂しても、非難の文章を書き連ねても、‘もう、どうしようもない’ので。舞台など一回性の芸術と違い、映画は元来、複製芸術で何度でも見ることができると考えるのが通常だが、本当に「何度でも見ることができる」のか? すくなくとも、マラパルテの活動には「その時、その場でしか体験できない映画」という面がありはしないか?
栃尾充様
的を得た批判でした。
パリの友人ジャクリーヌの作品は途中からどんどん色が抜けて行きました。代替機のその部分(色素)が壊れていたのでしょう。僕たちの作品のときはまだ色があったのですが。
この件は伏せておいても良かったかもしれません。しかしそれは、昨日の返信に照らすと「情」にあたるので、ヌーヴォの友人として事実を書き残すことにしましょう。
音の再現力はままで状態は良かったのですが、色が消えてしまうと、それは「別物」になってしまう。特にフェラーリのような「色もの」の作曲家は、生/性のカラフルさのなかで堪能したい。
栃尾さんの云うように、体験は一回性だから、そのときを逃すと、出会えるものも出会えなくなる。出会えない人は、自分のお城を守るかして自らの趣味を磨くのでしょうが、出会うというか、出会ってしまうというのは、後戻りはできなくなることです。「ストリート・オブ・ノーリターン」。それを「アットホーム」なヌーヴォや映画館という常設館がどう受けとめられるかはわかりませんが、色が消えたとわかった時点で劇場側から、招待券を出すという判断があっても良かったかもしれないと考えたのは、広島に戻ってからでした。
ヌーヴォの問題とはいえ、このように共同でことにあたっていると、その場で生じた空気の変化をすべて察知して、善処しなければいけません。奥さんだけではなく、若いスタッフがあたふたとするとき、あの時、あの場で出来た判断は、それしかなかったのです。このまま上映を続けようと。観客には申し訳ないけれど、自分がくだした判断が愚かだと気がつくのは、いつも後になってからなんだ。
椎名さんの講演を聞くことが出来なかった人には、後日講演記録をDVDで送ったり、HPに講演を起こして掲載する予定ですが、作者のジャクリーヌやパスカルがこの上映を目の当たりにしたらと思うと、言葉もない。
H.M.
"Presque Rien avec Luc Ferrari"
翌週。
三日目は、マラパルテの『飛之夢~fly fly away~』(2002)とガリン・ヌグロボの『ポリティカル・トリロジ-』(2005) 。四日目は、ジャン=ピエール・ゴランの『ポトとカベンゴ』(1978)とマラパルテの『今、海はあなたの左手にある』(2002)。五日目は、江口幸子の『MaMa』(1987)とマラパルテの『母モニカ』(2002/04)というラインアップ。
五日目の上映前、劇場のロビーで宮岡さんは我々夫婦に、「今の僕は完璧な映像にはそんなに興味はないんだ。単なる映像であっても、それをモンタージュで如何に繋ぐか、そこから歴史―物語を如何に語るかということに力を注いでいるんだ」というようなことを語ってくれた。中日にあたるこの三日間のプログラムはまさにその理念が凝縮された内容だった。
三日目と、土砂降りの豪雨に見舞われた五日目は予想した通り、余り多くの観客は集らなかった。インディペンデント作品の上映会なのだから、初日と二日目の過剰な盛り上がりが例外だったのかもしれない。
残念ながら、風邪でダウンした僕は、四日目には参加できなかったのだが、妻の話によると、上映期間中、もっともシネフィルが集った日となったそうだ。やはり、ゴランの作品目当てで来た客が多かったのだろう。ジガ・ヴェルドフ集団での作品以外は殆ど日本で紹介されることのなかった彼のキャリアの一部を垣間見ることのできる今回の上映は、シネフィルにとって逃しがたい経験だったのだろうと思う。そうしたシネフィルたちの思惑とは別に、僕には一つの疑問があって、それは、今回のプログラムで何故、ゴランの作品が上映されたのかということだった。というのも、「鷺ポイエ-シスV」におけるゴランとの不完全燃焼を知っているからだ。結局、ゴランは佐木島で映画を撮ることができなかった。「スタジオ・マラパルテによる映画史」と銘打った今回の上映会で、唯一の「負の歴史」といえるかもしれない。常識的に考えるなら、関西では京都でのみ上映した、ロブ・ニルソンとマラパルテによる『Winter
Oranges』(2000)の方が相応しいのではないかと。否、宮岡さんは、敢えて、ゴランとの「負の歴史」を選んだのかもしれない。完成された映画の歴史の裏には必ず生まれてこなかった映画の歴史もあると。同時上映でもある『今、海はあなたの左手にある』が、ある意味で、難産の末、生まれてきた安藤尋の『blue』(2001)の原風景を映し出した作品であるだけに余計、そう感じたのかもれない。
それから五日目のプログラム、宮岡さんが「ママと娼婦」と呼ぶ必殺の二本立てを上映中、これは僕と妻のみに起こった個人的な出来事だが、実に不可思議な体験をした。僕と妻はひとつ席を空けて並んで座っていたのだが、その空いた席にひとりの女のコが飛び込んできた。上映中のスクリ-ンを赤の他人の迷惑行為によって遮られるのは耐え難いものなので、妻も僕もそういうことには普段から神経を尖らせる方なのだが、その女のコが妻の前を横切り、我々の間にストンと座ったその動作の素早さは、思わず「忍者か」と呟いてしまうほどで(というか女性だから九ノ一か)、妻が言うには「気がついた時にはもう片足が私の膝の前に来ていた」という状況なので、隣に座られた僕にとってもまさに不測の事態で、‘突然存在していた’女のコに、思わず誰にも聞こえない程度の驚嘆の声をあげてしまったほどだ。それにしてもいったいあの女のコは何者なのだろうか? 家に帰って、妻は、あの女のコは、自作の上映に駆けつけた三好暁ではないかと言い、僕は、『Winter
Oranges』にも主演し、宮岡秀行とも極めて縁が深く、現在、ドラマやCMで活躍中の女優の内田チエではないかと推測した。しかし、風邪で身体が辛くて最初の上映が終わると同時に退場した僕は勿論、『母モニカ』の最後まで付き合った妻も、その彼女の顔を見ずじまいで、真偽のほどは不明なのだ。おそらく、そのどちらでもないように思う。
追伸、後日その女性が、宮岡さんの昨年のベストパーソンのyoyoさんであったことがわかりましたが…。
栃尾充様
「負の歴史」という言葉がありました。それはどこかで「想像のなかで見られた映画作品」、というものに自分が惹かれているからでしょう。映画史(歴史)は見られた、撮られた映画だけから成るようにみえて、実はそうではない、と感じはじめたのは、鈴木了二のアンビルトを撮影した頃からでした。実際に建った彼の建築と、建たなかった建築の模型やエスキースを撮影して、どちらが優位かが云えなくなった経験をしたのです。
映画化にこぎ着けるまでの、安藤尋だけが知っている、見られることがない沈殿した時間。或いは佐木島でのゴランや『H story』(2001)での諏訪敦彦の、「不完全燃焼」としての完成形態もこの経験と関係します(逆に、今回の上映から外した『Winter
Oranges』や諏訪敦彦の「きみはヒロシマで何も見なかった」や僕の「ヴィデオはわれわれ詩人のチビた鉛筆だ…」は、「鷺ポイエーシス」に根ざした作品で、Edgeとは趣が異なるカテゴリーに入ります)。
栃尾さんが大阪での撮影を一部手伝ってくれた『母モニカ』が海外で上映されたとき、もっとも引き合いに出された映画は、オーソン・ウェルズの『フェイク』(1974)でした。どちらのフィルムも、誇り高い未完成をフォルムとしています。一方の『フェイク』は、ある意味最初の「映画史」ではないかと思うのです。正確さはフランソワ・レシャンバックが撮ったドキュメンタリーのカットがモンタージュされることによって、そして一時間の間ウェルズは真実しか云わないと「うそぶき」ます。この映画の構造は、ニセモノ/ホンモノについて語られたシネマではなくて、あくまでフィルムの現在性に依拠しているように僕には思えます(ウェルズの場合は「永遠の現在性」というべきか)。
そこに映るガラクタのようなフィルムの断片のどれが負で、なにが正なのか。フェイカー・ゴランも云っています、「ひとつの正しい映像があるのではない、ただ複数の映像があるだけなのだ」と。栃尾さんが見なかった、上映途中に入ってきた女性の影も、見られないことによって「真偽のほどは不明」とあるではないですか。真偽を問うものは、善悪の価値、つまり道徳の名において映画/人生を裁くことでしょう。しかし、絶えず己れを変容させていく人生/映画は、裁かれるものでも正当化すべきものでもない。
僕の知っているモニカは、その生成のなかにある訳で…。
「きみはオオサカで何も見なかった」…それは僕にとって、「バラの蕾」のように鮮烈な映像なのですよ。
この項つづく。
H.M.
中谷礼仁氏と宮岡秀行
六日目。
七日間繰り広げられた今回の上映会の中で、一番の出色とでもいうべきこの日は、建築家の鈴木了二と彼の建築物を捉えたマラパルテの『LIVE
at the SCENE』(2004)とソクーロフの『フラット・コージンツェフ』(1998)が上映された。
上映作品の素晴らしさもさることながら、この日は上映終了後に行われたト-クの内容が圧倒的であった。建築史家の中谷礼仁氏(綽名がレ-ニン!)と宮岡秀行による対談は、「映画は、建築は、国家を超えるか?」といった非常に大きなテーマをベースにしてはいるが、それらの問題に自分たちの実践を元に答えていくふたりの真摯な態度に感銘を受けただけではなく、1999年に佐木島で行われた「鷺ポイエ-シスIII」においてソク-ロフと鈴木了二との思い出をふたりが語っていき、それを手始めに諏訪敦彦、安藤尋、三好暁、そして、磯崎新、メカスといった具合にマラパルテに関わった様々な固有名詞が飛び交い、それは単なる、懐かしさではなく、「今、ここ」としかいいようがない「スタジオ・マラパルテによる映画史」と結びつく、まさに‘その瞬間’に満ちた対話だった!
実は、この日、僕と妻の体調は最悪のコンディションだった。僕の風邪がどうやら妻にもうつったみたいで、ふたりとも会話の代わりに「ゴホン、ゴホン」と咳で反応しているという有様であった。そんな訳で、映画だけにして、ト-クは諦めて帰ろうとしたのだが、思い留まった。というのは、対談の中でも出てくる「鷺ポイエ-シスIII」での昼食の時、たまたま僕よりゆっくりと食堂に残った妻が中谷レ-ニンさんが参加者やスタッフたちと会話をしているのを隣で聞いていたのだが、そこでの中谷レ-ニンさんのお話が実に面白かったと言っていたのを覚えていたので、ならば、今回、この機会を逃してなるものかと無理して残ったのだが、その甲斐はあったのである。
栃尾充様
このトークは大事な時間となりました。連日の睡眠不足がたたって、かなり疲れていたのですが、リラックスしたレーニンさんの雰囲気にこちらも感染。しかも話題は、師のソクーロフとアクロポリスのような途轍もない建築を建てた鈴木了二から、その鈴木の建物が竣工するまでのホワイトノイズ状態をそのまま投げ出したような本を、強靱な意志で編集したレーニンさんのアセテート出版の苦労話。更に、建築家の村野藤吾、丹下健三、今和次郎にまで言及し、20世紀を横断しながら、それら固有名詞をこえて「建築的意志(ポイエーシス)」を呈示できたのではないかと思っています。
「行為は予見できるかできないかという問題は、常に、時間は空間であるかという問いに帰着する」というベルクソンの『時間と自由』の問いから、1999年にソクーロフが、「鈴木了二は近いうちに優れた日本建築を建てる」と細木数子の如く(?!)予見したことや(まあ予言が当たったわけだが)、三好暁のなかで僕の言葉が具現し、映画制作と人生が化学反応をおこした『母モニカ』について触れながら、時間と空間が等しなみとなった建築や映画がどのようにして生まれたかを語り合って行きました。そこに「資本-ネーション-国家」を超える建築、映画の貌をさぐるという、あとがきにすると難しいけれど、極めて物質的(瞬間的)に言葉がくりだされていったという印象が、その後の何人かの感想でわかりました。
上映に関しては、ソクーロフの作品の強烈さに、僕の作品がどんなに甘く弱いかが露呈されてしまうような感じだったけれど、ソクーロフは「形見だけを撮っている」という中谷レーニンさんのことばは、いまも響いています。
この項つづく。
H.M.
シネ・ヌーヴォ
七日目。
いよいよこの日で千秋楽だが今日も雨。マラパルテの『HOTEL CHRONICLES』(2002)と『Celebrate CINEMA 101』デジタル・リマスタリング版(1996/2001)が上映された。
トークの予定がない日は、上映前に宮岡さんが挨拶を兼ねて作品について簡単にコメントしていたのだが、この日は、ヌーヴォの支配人の奥さんが挨拶をし、マラパルテだけでなく、ヌーヴォ自体もこのイベントの主催者であることを観客に印象づけた。
『Celebrate CINEMA 101』のメカス篇の舞台となる彼のソーホーのロフトが、初日に上映された『グリ-ンポイントからの手紙』の冒頭にも出てくることからも分かるように、メカスにとっての十年とマラパルテの十年の重みが、初日と七日目の上映を結びつけることで円環する。無論、それだけではなく、例えば、『HOTEL
CHRONICLES』に於ける、宮岡秀行と青山真治の対話の場面を召喚すると、青山真治を見つめる宮岡秀行の「守護天使の眼差し」を例にとるまでもなく、かつて映画青年だった時代にふたりは見事にタイムスリップしているではないか。つまり、この日のプログラムは、映画作家宮岡秀行が、スタジオ・マラパルテが誕生する以前の光景を映し出すものといえなくはないか。
誤解を恐れずに言えば、「スタジオ・マラパルテによる映画史」というプログラムは前日までで終了し、七日目は、既に新しいマラパルテの旅に入っていっているのではないか。丁度、母親の胎内から分娩により未知の光の中に引きずり出される「誕生」に「死と再生」を見る考え方に喩えれば、この七日間は産道を通る旅だったようにも思える。
その映画の旅もこの日が最後かと思うと寂しい気もするけど、体調的には最悪レベルにまで達しているので正直ホッとしないわけでもない。といっても僕は途中で帰ったり休んだりしているので余り偉そうなことは言えませんが、妻は皆勤賞ものなので実に立派。
さて、旅が終わって中一日休んだ我々夫婦は、21日、新幹線に飛び乗って、静岡まで行く予定になっています。そこで、柄谷行人の講演と鈴木忠志の芝居を見るつもりです。柄谷行人といえば、「鷺ポイエーシス
I」、 鈴木忠志といえば「鷺ポイエ-シスIII」の参加アーティストで、しかも「鷺ポイエーシス」の最期のゲストの一人である磯崎新の建てた劇場(グランシップ)での上演。何だか、七日間の「スタジオ・マラパルテによる映画史」の旅がまだ終わっていないかのようで…。
栃尾充様
七日間お疲れさま。ほかにも数人、皆勤の方がいたようですが、一日だけ来てくれた人にも感謝したい。
今回とりあげた作品は、スタジオ・マラパルテにとって大切なものばかり。マラパルテの原点です。このような作品を集めて上映するのは、現在の映画にまつわる表面的なことから逃れるためというか、映画製作が巨大なビジネスに変化する前に、映像自体がもっていたリアリティーを取り戻したかったことにも起因します。なぜなら現代の映画の大半は、知覚の間にあったものを見えなくさせてしまうものであるようにも思えるから。映画産業の光芒の一角がシネ・ヌーヴォの「今」だとすると、そこで上映したことが、これらの作品にとって良かったかどうか。ビジネスだから良い作品が育たないとは言い切れないけれど、長い目で見ているかどうかは怪しいと思うのです。テンポが速まっている「今」、宣伝力のない作品が速く埋もれるのは、確かでしょう。
栃尾さんからの最初の手紙にあった、ヌーヴォ梅田と九条の違いが一昔前のミニシアターの「格」の違いを保証していたとしたら、今は益々混濁した様相が劇場側にもあるのかもしれません。これはアップリンクと組んでフェラーリを公開したときにも感じたことですが、70席程度のスペースで映画を興行して行く配給システムは、既に壊れているのではないか? それに伴って劇場側のプロ意識も著しく低下しているのではないか? この十年を振り返ってみると、そういう気がしてなりません。
配給ルートの外でといえば、百万円にも満たない制作費でつくられた『母モニカ』を、海外の幾つかの映画祭は心から祝福してくれました。どんな小さな才能でも、かけがえのない「その映画」を待ち、上映してくれる。社会の違いといえばそれまでだけれど、作家を商品のように扱う日本の社会とは、生まれてくる作品にはやはり大きな差が出てくる。見せ方やその感受の仕方も、自ずと違ってしまう。それは仕方がないでは済まされない、深刻な問題です。
でも個人的にはこの上映会はやって良かった。僕にとっては七日目が転回ではないのだけれど、これでEdgeは卒業だと思えた。しかし、「鷺ポイエーシス」も「Edge」も、僕の人生を強くし、スタジオ・マラパルテを強固な存在にしてくれた、それは間違いないと、深い静けさに包まれた雨の九条をあとに、確信しました。
追伸、全ての客がはけたあとも劇場に、武満徹の『マイ・ウェイ・オブ・ライフ』が響いていました。『Celebrate
CINMA 101』は武満さんに捧げた映画だったので、この日は武満さんの曲で閉じたかったのです。その曲のなかで、「時が過ぎるのではない、人が過ぎるのだ」という田村隆一の詩が引用されていて、文字通り観客が過ぎたあとの劇場は、時が溜まっていた。ああ僕も「時」を見ただけだったのかもしれない。
H.M.
*栃尾充氏からの手紙は、5月20日に書かれ、宮岡の返信は、5月29日に書かれた。